2010/11/30

立ち返る場所〜日本音楽集団定期演奏会〜

日本音楽集団の定期演奏会を見に行きました。
「和楽器オーケストラ」「現代邦楽」などと呼ばれるジャンルですが、例えば現代の作曲家が交響曲を書いても「現代音楽」とは呼ばれません。日本の楽器と西洋の楽器では、その「生育歴」が違うので、呼び方も変わってくるのでしょうが、やってることはいわゆる「現代音楽」というよりは、伝統楽器を使った中~大編成の「合奏」であって、「現代音楽」のアバンギャルドさとは一線を画した親しみやすいものだと思っています。ぜひ、多くの方に聞いていただきたい音楽です。

打楽器(太鼓ではなく「鳴り物」)だけを集めた池辺晋一郎氏の曲、現代詩の朗読に音楽をあてたもの、音楽集団発足間もない頃の挑戦と試行錯誤の曲など、バラエティに富んだコンサートでしたが、終演後の打ち上げで話したことが印象に残りました。

今回はクラシック系の指揮者が客演されたのですが、その振り方はやはりクラシックばりにシビアでタイトだったそうです。
同じオーケストラでも、西洋では「クラシック」=古典ですが、邦楽オーケストラは古典ではありません。
そういうものと対峙し取っ組み合うなかで、「古典という〝たち帰る場所〟があるから、僕らはやっていられる」と僕の師匠が仰っていました。

古典というのは、音楽なら音楽、楽器なら楽器の発祥と一体のものです。その音楽が、その楽器がなぜ生まれたのか、そこにある時代との対峙にこそ、古典の神髄があり、古典の古典たる所以があります。「古音楽」「古文書」ではなく「典」、つまり手本でありよりどころ、我々にとってのたたかいの手引き、ということだと思います。これは学問・文化に共通するもので、音楽に限った話ではありません。

太鼓打ちにとっては、能や歌舞伎の音楽、各地の民俗芸能が「古典」だし、古典というのは出てきた「結論」だけを学んでも何の意味もないもので、その「過程」に流れる〝人間の血〟を学ばなければならないのだと思います。

(2010.11.17 第一生命ホール)

2010/11/18

ツェッペリン・スイッチ ON!

昨日、「ツェッペリン・スイッチ」が入った。

「ツェッペリン・スイッチ」というのは、僕の脳の中のどこかにあって、一度ONになるとレッド・ツェッペリンしか聴かなくなり、なかなかOFFにならないスイッチのことだ。

ツェッペリンの音楽には、そんな「毒性」がある。
例えばビートルズなんかは、大好きだしよく聴くけど、いつでも聴けて、いつでも他の音楽に気移りできる気楽さがある。だけどなぜだかツェッペリンは、普段なかなか聴かないのに、一度聴きはじめるとともう離してくれない力がある。

なぜなのか? それは深く考えないことにしている(笑)。

今回スイッチが入ってしまったのは、「ドラムマガジン」12月号で、〝ボンゾ〟ことジョン・ボーナムの大特集をやっていたからだ。
ボンゾのドラミングからは、多くのことを学んだ。ドラマーじゃないので難しいことはわからないが、サウンドメイク、ダイナミクス、タメとツッコミ、それらを土台にした独特のグルーヴ、そして何より曲と歌のコンセプトに沿った、あるいはコンセプト自体を先導するドラムの役割・・・。不世出・最高峰のドラマーであったことは間違いない。
ドラムマガジンの特集では、ボンゾのドラミングの「音鳴り」にひとつの照準をあてた記事を書いている。和太鼓にも通じることなので、興味のある人はぜひ読んでみてほしい。

ボンゾのドラミングが好きなのは、もちろんレッド・ツェッペリンの音楽自体が大好きだった、ということが最大の要因だけど、「その音楽がなぜ好きなのか」を探求してみると、そこに音楽的特質を見つけることができる、というのも、ツェッペリンを聴いていて発見したことだ。

以前、The J.B.'fで「ゴールドコンサート」に出演したときに、スタッフの学生に「LED ZEPPELIN」のロゴ入りバッグを見つけられ、

「好きなんですか?」

と聞かれたことがあった。

「なんか〝ツェッペリン・スイッチ〟が頭の中にあるんだよねー」

と言ったら、

「僕もあります!」

と即答された。

「スイッチ」という言葉だけで説明もいらなかったのが嬉しかった。

去年、ニューヨークに行ったときも、このバッグをみて、カルネ申請の窓口にいた空港のおっちゃんが声をかけてくれた。

「Drummer?」

最初はなぜそう聴かれたのかわからなかったが、そのおっちゃんは僕のバッグを指さした。

「Yes ! I'm Japanese Drummer !」

この出来事があったおかげで、はじめての自力海外でも少しホッとしたのを覚えている。



僕の頭の中にスイッチがある、と自覚しているのは、Zepの他にはジミヘンだけだ。

それがなぜだかわからないが、ただ、こう書いてみて気がついたのは、ツェッペリンもジミヘンも、「今を生きるスリリングさ」を音にしている、という点で共通している、ということだ。それはライヴだろうがスタジオレコーディングだろうが、変わらず貫かれている。
一人の人間としてみれば、彼らの音楽はやはり彼ら自身にとってのカタルシスだったのかも知れない。それが僕の心をとらえるのだろうか・・・。


ボンゾの死に様もジミヘンの死に様も、僕は少しも肯定するつもりはない。ある意味では、時代に負けたのだ。だけどその終わり方に、やってきたことの運命的な帰結を見てしまうのもまた、事実だ。多分、多くのツェッペリンファン、ジミヘンファンは同じように感じていることだろう。

さて、毎年恒例の年末ライブラッシュを控え、予習をしなきゃなんないのに、「スイッチ」は入ってしまった。

いつ、スイッチはOFFになってくれるだろう・・・。


2010/11/16

友人たちのフライト

The J.B.'fのメンバーであり、プロ和太鼓奏者の片岡亮太が来年から1年、「障害学」の研究と音楽修行のため、アメリカ・ニューヨークに留学します。

現在、1カ月弱の「準備留学」に行っていますが、彼のブログにその様子がアップされています。
また、太鼓衆・仙の元メンバーでこれもアメリカに留学中のマサが、その応援の様子その他いろいろを、「Taikonnection」というブログに認めています。

どちらもぜひ読んでいただきたい内容です。足をお運びくださいませ。

片岡亮太 めざせ!!ファンキーグルーヴ

TAIKOnnection

迸るマグマ 三上ちさこ

いやー、行っといてよかった。

金も時間も限られてるなか、ワンマンでもないし、ICOCAやめよか迷っていましたが、行ってよかった、というより、行くのやめなくてよかった、という感じのライブでした。

バンドでやっていたfra-foa時代は欠かさずライブに足を運びましたが、彼女がソロになり故郷の仙台に拠を移してからは、都内ライブにはスケジュールがあわずずっと行けていませんでした。

何年か振りに彼女の歌を聴き、あのマグマのようなエネルギーは健在、というか、4人一組というバンド時代より、一アーティストとして裸になった彼女のパワーと独特のエキセントリックさ、「恐ろしさ」ともいえるほどの圧倒的な破壊力がいっそう剥き出しになっていました。

歌とサウンドの根底に流れる、生きることへの絶望と渇望という矛盾が生み出す巨大なエネルギー。

一つのものごとの相反する両側面を捉えることは、その本質をつかむ重要な観点の一つですが、彼女の詞やインタビューなどを見ていると、彼女はものごとの矛盾を捉えることに関し、実に卓越したものがあります。

生きることの矛盾、というより「生きていくこと」の矛盾、ロックのモチベーションそのものですが、それを歌とサウンド、そしてステージングにまで一貫させて昇華させることができる、稀有なアーティストだと思います。

(2010.11.12 渋谷チェルシーホテル)


2010/11/12

またたびをする


響の栃木公演がありました。
いつものコンサートより楽しい気がしたのは、「演奏旅行」だったからだと思います。
響では、ここ数年連続して「演奏旅行」をやってます。
2007年 韓国
2008年 スイス
2009年 ニューヨーク
と過去3年は海外でしたが、今年は代表である玉ちゃんの故郷への凱旋公演。

翌日にはデイケアセンターにもお邪魔して演奏させていただいたので、ツアー気分です。
集客はほとんど玉ちゃんに任せきりだったこともあり、(首都圏からの応援団の皆さんを除いて)お客さんはまったく見知らぬ顔。響そのものとその演奏だけが、舞台と客席をつなぐものでした。

知らぬどうしでも、芸能を通じてつながり心が通い合うんだ、ということが実感できるから、演奏旅行は楽しいのかも知れません。

土地柄もあるのでしょうか? お客さんたち(玉ちゃん世代がそれ以上が圧倒的に見えましたが)がとても喜んでくれて、ドタバタリハの不安を吹き飛ばしてもらったのも、気兼ねなく楽しめた要因だと思います。

さあ、次はどこかな?(笑)

ISBN : B00005G7A6)

2010/11/05

クリスマス?

帰路、駅前のモールを通ったら、もうクリスマスソングが鳴っていた。

いくら季節の先取りはマーケティングの基本とはいえ、日本の四季のなかで最も美しく哀愁を誘う季節感が台無し。

そんなに急いでどうすんだよー。もっとゆっくりのんびり生きようよー。
(もう冬ですね、って書いたばかりだけど(^^;)

2010/11/04

浅草寺本堂


2カ月ぶりに浅草に足を運んだら、浅草寺の本堂の改修工事がほぼ終わっていました。
ずいぶん前に前のブログに夜中に改修作業をする職人さんの写真を載っけたのを思い出したので、
この写真を載せました。

来年の三社は本堂復活ですね。

帰り道、今秋はじめてオリオン座をそれと見ました。
短い秋は終わりそうで、もう冬ですね。

2010/11/01

続・音楽恐慌?

ローソンが目を付けたのは、音楽的なこだわりが強いと言われるHMVの会員400万人だそうです。比較的購買意欲の高い層をターゲットに、エンタメ関係の需要を掘り起こそう、ということでしょう。

もとより買収そのものを否定するつもりはないし(そもそも株主じゃないし)、がんばっては欲しいと思います。

さて、ヒッキーは引退説まで出てきているようですが、ぜひ再起してほしいものですね。
以前、Mr.Childrenの活動休止を予見し、それが的中したことがありました。アルバム『ボレロ』が出たときに、〝こんな歌、歌い続けられるはずがない〟と思ったからですが、まああのアルバムを聴けば誰でもそう思うかも知れません。

桜井和寿の場合、社会の不条理を歌いながら、批判してきた資本主義のシステムのおかげで自分は成功を収め栄光を手にするという矛盾に突き当たったこと、とくに彼は世の矛盾を自己の内側に見出だし、身を削って歌っていたので、言ってみれば先鋭的な表現者としての感受性がブレイクダウンしてしまった、ということだったと思います。

しかしヒッキーの場合は、プライベートな事情もあるにせよ、芸術家として必要な「人間性の再生産」、僕はよく「心の新陳代謝」と言いますが、それが出来なくなったことによるものです。さまざまな事情から「心の栄養」を取ることが出来なくなり、このままでは「残りカス」のような曲しか書けなくなる、と思ったのでしょう。

職業音楽家としてはそれでも休まず続けるべきなのかも知れませんが、もはや限界に達した業界の在り方に、〝賞味期限の内に搾り取られるだけの使い捨てになってたまるか〟と、バッシンクを恐れず一石を投じた彼女の姿勢を、僕は支持します。

いずれにしても、「人間的なものの再生産」が、つくる側でも聴く側でも行われず、それを前提に業界が利益を上げる仕組み作りに躍起になっている現状は負のスパイラルです。ヒッキーの決断がこの螺旋を断ち切ることにつながることを願って止みません。

僕らにとっては、音楽をファッションやスタイルとして「消費する」聴き方だけでなく、一つひとつの作品をアーティストの分身として大切にすることに、もっともっと頓着する必要があるのでは、と感じます。