雑感を並べてみます。
まず出演者ですが、
【第一部】 クラシック&J-POP
岡田直樹(テノール歌手)/横山隆臣(作曲家・ピアニスト)
竹本洋介/堤千代司/徳寄瞬(シンガーソングライター)
【第二部】 邦楽・和楽器
仲林光子(琵琶・箏)/仲林利恵(みさと笛・能管)
柳家小春(寄席三味線)/菊地良則(尺八)
影山伊作/友野龍士/的場凜(和太鼓)
チェ・ジェチヨル(チャンゴ・ケンガリ他)
仙堂新太郎(小鼓他、音楽コーディネータ)
【第三部】 セッションライブ
被災地の状況を見るにつけ、いてもたってもいられない思いが強まる一方、仕事を投げ出すわけにもいかず、また、職業自体が損害保険という「ピンチのときのサポート」という性格上、それに勤しむことで、いまの苦難解決の力に少しでもなっていればいい、と言い聞かせてきた。
しかし太鼓打ちの端くれとして、いま何かをやるべきだがいったい何を…と、逡巡は折り重なっていった。
そうこうしているうちに1カ月くらいたって、ある朝震災のニュースを見て急に涙が出てきた。その後はもう、何を見ても目が潤む状態。ことの大きさを受け止めきれずただ慄いていた心が、ようやく事態に直面し始めた気がした。
何か心が宙にさまよっている状態のなかで、「自粛」している場合じゃない、何かしなきゃ、とチャリティーやら支援イベントやらいろいろ具体化を始める一方で、「何か忘れているんじゃないか」と心の隅に常にあった気持ちの正体が、最近になってようやくわかった。
それは、「死を悼む」ということ。
被害が直撃した地の人たちは、亡くなった家族や友人のことを心に大切にしまいながら、必死で明日を迎えようとしておられるのだと思う。そして東京でもいろんな人たちが、前に進んでいくための知恵と力を出し合い、アーティストはそれを応援したり、広げたり呼びかけたり、小さくならずにがんばっている。
だけど、足下を見ること、後ろを振り返ることを忘れていたのではないか。少なくとも自分自身はそうだった。
死びとの歳を数えてもしょうがない、と言われたりもするけど、これだけ多くの人が不幸な亡くなり方をした、そのことを心に刻みつけることは、やっぱり絶対に必要なのだと思う。
起こるべくして起こった災害、しかしあってはならない死、矛盾したこの二つを社会としてどう受け止めるのか、そのためにもまず死者と向きあい死を悼むのだ。
芸術には、人間のただ一つの感情の表現のすべてにすることが許されている。
そして過去の事実とそのときの感情を音に刻み、後世の人間の心に伝える威厳と尊厳が、音楽にはある。
悼みの曲は世界のどこにでもある。
この日のライブでも、追悼の歌が歌われ、花火のルーツが鎮魂にあることが語られ、自分の気持ちを確かめることができた。
日本には、世界中で演奏されている鎮魂の打楽器曲がある。自分にできるレベルの曲じゃないけど、挑戦してみることにした。
(2011.4.18.表参道スパイラルCAYにて。ライブの感想は次回)