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2011/05/06

無欲の欲


連休中、2つの高校部活動のコンサートを見に行きました。
鶴見総合高校和太鼓部と都立東大和高校吹奏楽部で、いずれも3月中の公演予定が震災の影響でGWに延期されていたものです。

どちらも太鼓でつながりのあるメンバーがいる関係で足を運んだのですが、共通して感じたことがありました。

それは、男子部員が2人しかいないこと・・・は(重大ですが)おいといて(笑)、「無欲に」音楽を楽しんでいたことです。

自己表現・自分を見せる、ということはもちろん大切で、それを否定する意味ではありませんが、ブラスバンドのように作曲家が書いた曲をアンサンブルで演奏するとき、昔からの祭囃子や古典音楽を演奏するとき、「己を見せたい」という欲が先に立つと、見えるものも見えなくなるのです。

というよりも、僕自身も、秩父屋台囃子などの伝統的なお囃子、あるいは能や歌舞伎の古典音楽などに触れるようになって、だんだん己を捨てることができ、そこで初めて、一端かも知れませんが真髄に触れるというか、長ーく受け継がれてきたもの“そのもの”に触れられた気がするのです。

当世、高校生が純真無垢だというのは幻想かも知れませんが、少なくとも今回見た高校生たち、彼らの若さ、まじめさ、ひたむきさが、欲に邪魔をさせず曲そのものを楽しみ、そのことで曲そのものが持つ価値を知ることを可能にしたのではないか、と思います。指導者の見識と力量に因るところも大きかったのでしょう。

もう一つ、彼らが無欲になれたのは、やはり震災の影響があったのだと思います。
仲間がいて、楽器と場所と時間があって・・・という、今まで当たり前だと思っていたことにかけがえのない価値があったことを、一緒に過ごしてきたからこそ敏感に受け止め、やがて卒業して離ればなれになるいまの仲間との時間・演奏をもっともっと大切にしよう、そう感じたのではないでしょうか。

それは、見ている側にも伝わる、というより見ている側も同じ立場でした。
演奏というのは文字通り一期一会で、音は出た瞬間から減衰し、心に印象を残して消えていくもので、その瞬間の感動こそが最大の価値だと思います。取り戻すべき日常、大切にすべき時間が何かを、音楽を通じて演奏者も観客も共有することができたのではないかと思います。

「欲」も必要ですが、「無欲」は意識しないと得られない(無を得るというのも変な表現ですが)もの。精進したいと思います。

(5月3日 鶴見総合高校和太鼓部演奏会)

(5月4日 都立東大和高校吹奏楽部演奏会)

※写真は仙堂師匠および響の玉田さんからお借りしました。

2011/04/01

PLAY FOR JAPAN !!

海外からの"Pray for Japan"のメッセージに応えてか、日本のミュージシャンたちが1枚1000円の震災救済支援コンピ・アルバムのリリースを重ねています。すでにvol.10まで作成され、300万円を超える売り上げが義援金として送られたとのこと。

Vol.7にはアラゲホンジの「真昼のゆめ」が、彼らの1stアルバムリリースに先駆けて収録されています。
その他、S.F.U.の中川さん、トンコリのOKIさんなどの大御所も含め、200近いアーティストが参加しています。

以下、制作者のメッセージと収録アーティストをご紹介します。ぜひ、1枚2枚とお買い求めください。
僕はとりあえず2,3,4,5,7あたり買います。
タイトルをクリックすれば、購入サイトに飛べます。

<以下転載>
東日本大地震救済支援コンピレーション・アルバムです。アルバム・タイトル『Play fo Japan』には、「日本の未来のために演奏する」と言う意味を込めています。我々の思いが、少しでも被災地に届きますように。みなさん、一緒に、粘り強く、再建と復興をめざして歩んでいきましょう。

DL期間 : 2011年3月17日〜2011年6月16日
ディレクター : 小林美香子 / 佐々木亘
マスタリング : 岩谷啓士郎
ジャケット・デザイン : 名倉剛志

Play for Japan Vol.1
あたりめ, ハレルヤ, Labor, Parts, MONO, ウミネコサウンズ, オガサワラヒロユキ, sgt., Aureole, world's end girlfriend, number0, TREMORELA, クラムボン, MODLUNG, holiday in tampere club, FLEET, clams, the chef cooks me BAND, フラバルス, Asohgi, elekibass

Play for Japan vol.2
ハリー細野, THE CHOW CHOW CATS, TOSHIYUKI YASUDA, DODDODO, Kama Aina, 菊地成孔, STUTS, BiS, SHABUSHABU, African Head Charge, 高田 漣, ショピン, 加納良英(and Young...), superdumb, ASUNA, 沖 仁, ヴァガボンドcpa, コシミハル, Shinji Masuko a.k.a DMBQ / Boredoms

Play for Japan Vol.3
ゆーきゃん, エマーソン北村,Fragment, NGATARI, Kip Hanrahan, JAZZIDA GRANDE, BESHALIST, JB, keiichiro shibuya, EeL, BooT, convex level, とりP, YAMANE, Paranel, EeMu, audio active, タカラダミチノブ, Pawn, Geskia, 不可思議/wonderboy

Play for Japan Vol.4
イリシットツボイ, ECD, LIKKLE MAI, Limited Express (has gone?), TIALA, the mornings, moools, BLACK GANION, Saddles, あらかじめ決められた恋人たちへ, SAFARI, TRADEMARKS, MASTERPEACE, ガロリンズ, OKI DUB AINU BAND, GOD'S GUTS, Earth No Mad From SIMI LAB, younGSounds, pasadena and クリテツ, V/ACATION

Play for Japan Vol.5
朝日美穂, folk enough, nontroppo, halos, STARBOARD, ユピトーク, 松崎ナオ, World Standard, ロボピッチャー, SEBASTIAN X, SAKANA, 青葉市子, 柳原陽一郎, 佐久間正英(Masahide Sakuma), WEARE!, BOWZ, NolenNiu-de-Ossi, THE CORONA, Traks Boys

Play for Japan Vol.6
dry as dust, おとぎ話, THE BITE, worst taste, Weekend, SPANOVA, lily of the valley, 東京カランコロン, Turntable Films, This World Is Mine, Sorrys!, broken little sister, 石毛輝, アナ, トレモロイド, 空中ループ, idea of joke, LITTLE CREATURES, PaperBagLunchbox

Play for Japan vol.7
山田庵巳, 日比谷カタン, acari, VIDEO, Kanina, ツチヤニボンド, ひらくドア, PLASTIC GIRL IN CLOSET, swimmingpoo1, MOROHA, 半澤則吉, 高畠俊太郎, 井乃頭蓄音団, HELLO HAWK, BLUEⅢ, 呂布, アラゲホンジ, カナタトクラス, 金田康平(aka.THE ラブ人間), 中川敬(ソウル・フラワー・ユニオン)

Play for Japan vol.8
佐立努, 転校生(WEEKEND), FLOWER TRIANGLE, Panorama Family, MACKA-CHIN, HAIIRO DE ROSSI, Ambient Chameleon, TREMORELA, DOTAMA, the SHUWA, joseph nothing, us, Tam Tam, ときめき☆ジャンボジャンボ, LIKA, G-Ampere, JUICEBOXXX, BUPPON, Shingo Suzuki, VOLO+piz? Tracked by jjjj

Play for Japan vol.9
俺はこんなもんじゃない, 4CE FINGER, Mitsunori Sakano, WEEKEND, sakuHana, gimmickaholic, GROUNDCOVER., fishing with john, Handsomeboy Technique, キツネの嫁入り, 白波多カミン, FLUID, Vampillia, Currots, スガダイロー, GAGAKIRISE, 柳原陽一郎, BALLOONS, BEAT CARAVAN, SOSITE, 笹口騒音ハーモニカ(太平洋不知火楽団), ドブロク

Play for Japan vol.10
Polar Chalors (HATA from Dachambo, SINSUKE FUJIEDA), Tyme., imaginion, PADOK, 有明け, 中村好伸, 綾戸智恵, sominica, 夢中夢, グリンフィールドのアフターダーク, Gak Sato, Shinsaku Moriyama from PETSET, minamo, monocism, üka, 坂本美雨 with 中島ノブユキ+高田漣, enami Taisuke(江南泰佐), Harp On Mouth Sextet, 4 bonjour's parties

2011/03/31

裏方の出番

自分は裏方タイプだと思っています。

もともと脚光をあびるのが極度に苦手で、本来舞台に立てるようなタイプの人間ではないのですが、それでも音楽・太鼓は好きなので、ステージに立ったりもします。

プレイヤーよりスタッフの方が好きなのですが、プレイヤーとして立つときも、“裏方職人”的なポジションを好みます(力量は求められるのですが)。

僕が参加させてもらっている秩父の祭りとお囃子が大好きなのは、裏方の面目躍如っぷりが実感できるからです。
すなわち、囃子手は祭りの中ではまったくの裏方であり、そもそも見えない山車の中ではたいています。曳き子と若行事(主役)を励まし、祭りを盛り上げ、山車を動かすための音楽です。

ステージで「主役」になるときも、「脇役精神」は忘れずにやってきたつもりです。

震災発生後、いろんなものが「自粛」の名の下に中止に追い込まれています。
経済的ダメージを考えると、もちろんいろんなことの規模を縮小することは避けられないのですが、祭りや音楽まで、文字通り「鳴りを潜め」てしまうのは、どうしても不自然です。

自分が目立ちたいだけ、自分を売り込みたいためだけに音楽をやってきたのであれば、「自粛」という選択肢もあるでしょう。(生計の問題を除けば、ですが)

でも、全国のミュージシャンのみなさん、アーティストのみなさん、ほんとにそれだけですか?

歌や音楽を通して、生きる価値や意味を分かり合い分かちあうことに、意味を見つけていたのではないですか?

何があっても前に進む、そのための励まし、慰め、労り、怒り、悲しみ、喜び、悩み、痛み、苦しみ、迷い、確信、力…それを音にしていたのではありませんか?

かくいう僕自身も、被害のあまりの大きさに、まだ何も実感できず心が空中をさまよっているような、そして自粛と言うよりは萎縮している感覚の中にいます。
でも、彼の地の有り様を思ったとき、「自粛」が果たして意味のあるものなのか、むしろその反対物になっているのではないか、という気がします。

いま、音楽の「脇役的役割」を発揮すべきときではないでしょうか。

すでにギリシャ時代から職業的芸術家は存在し、芸術は一方で「主役」の道を歩んできましたが、あらためて原点に回帰するときが来たのではないでしょうか。

裏方の出番、だと思います。

2011/03/28

石原都知事への反論

3月11日、東北地方太平洋沖地震。

東北地方の損害がいったいどのくらいなのか、まだ誰にも想像がつかない。
インフラ復旧どころか、土地や海という、基盤の下の「土台」そのものが破壊され汚染され、マイナスからの再出発だろう。

復興の意味を、「震災前の状態に戻す」ことより「新たな社会と産業をつくる」と捉えなおす必要があるのでは、と思う反面、かけがえのないものが失われ、取り返しのつかないことになった、という喪失感の大きさを自分でもはかりかねている。

岩手の中野七頭舞、さんさ踊り、鬼剣舞、福島の斉太郎節など、僕が直接・間接に触れてきた民俗芸能のなかでも、やはり東北地方のものはとても多い。僕が直接知っている方で犠牲になった方はおられなかったが、家をなくし避難生活を送っておられる方もいるし、親戚を失った方もいるし、当然ながら商売の見通しが立たない、という方もいる。

そして放射能は、黒潮にのれば北東北へ、親潮にのれば銚子沖へ。漁業・海産業も深刻な害を被る可能性がある。

もちろん被災地の現状は、生存のための衣食住とエネルギー源が確保できるかの瀬戸際であり、文化・芸能を云々する状態でないだろうけど、一方で、土地に根付いた文化・芸能まで失われてしまえば、いったい「地元」と呼びうるアイデンティティはどうなってしまうのだろう? 土地を追われた方々を結びつけるものは何なのだろう?
(と書いていたところへこの記事がリツイートされてきた)

ここ東京にもたくさん芸能はあり、三宅島や八丈島の太鼓は全国的に有名だ。
三宅島のみなさんが噴火による火山性の毒ガスで島を離れることを余儀なくされ、それでも島での生活を取り戻そうと苦労を重ねていたとき、当時の都知事は、「なぜ人が住めない三宅島に住もうとするのか」と言い放った。

この知事の「暴言王子」ぶりは言わずもがなで、「障害者に人格はあるのか」「世の中の悪しきものはババア」「震災は天罰」などその枚挙に暇がないが※、三宅島への暴言はとりわけ僕の心につきささった。

それは、「暴言」ではあっても「暴論」ではないと感じたからだ。つまり、「住みにくいところに無理をしてでも住むことにどれほどの意味があるのか」という問いに対して、「すまなきゃいいじゃん」というのが一つの回答として成り立っているからだ。ただし、行政権力の長が言っていい言葉ではない。

言いたいのは、この問いは、被災地に住むか否かを問わず、僕らののど元に突きつけられた問いではないか、ということだ。和太鼓打ちには今、自分たちの存在意義がいろんな意味で問われていると思う。

僕の答えははっきりしている。

東北の寒さと農と人がなければ、七頭舞は生まれなかった。

八丈島の潮風と太陽と人がなければ、八丈太鼓は違う太鼓になっていた。

三宅島の人たちが島民であることを棄ててしまえば、木遣り太鼓は若い世代に受け継がれなかった。

音楽・芸能は誰かが「発明」するものではなく、風土と暮らしから生まれ、歴史の中で常に新しい命を吹き込まれながら、絶えることなく生き続けてきた「生きもの」なのだ。娯楽にとどまらず、生活そのものなのだ。

僕らのように都会で生活する人間も、各地の伝統芸能に触れることで、ふるさとのかけがえのなさを教わった。

「石原都知事への反論」としたが、論争をするつもりはない(というか相手にされないし蟷螂の斧だし)。
僕には僕の考えがあり、やるべきことをやるのみだ。

被災地「支援」というよりも、彼の地で失われようとしているもの、僕ら自身が日本人として守らなければならないものを何としても守り通したい、という気分だが、まずは被災地の生活再建。これ自体長い道のりだが、故郷への帰還が少しでもはやまるよう、何ができるか考えたい。

そして和太鼓打ちの端くれとして、いままで与えてもらったものに応えるために、みんなと力をあわせたい。
このブログでもそのうち、何かを呼びかけることになると思う。

そのときは、よろしくお願いします。

・・・と、ここまで書いてみて振り返ってみると、書くまでもない当たり前のことのような気がします。
だけど、当たり前のことも口に出さなければ、だんだん当たり前じゃなくなっていくので、やはりモノを言うことは大事かなー、と思います。

最後になりましたが、この震災の犠牲となった方々に深いお悔やみを申し上げます。
また、被災されたみなさんに、心からお見舞いと激励を申し上げます。
精一杯、復興のために力を尽くしたいと思います。

※発言は一部孫引きです。申し訳ありません。発言の真意に対する評価はさまざまですが、都知事として以前に、僕は社会の一員として許されるものだとは思いません。

2011/01/27

ことばについて② 障「がい」者って?

前回の「音」から今回は「文字」の話。

難読漢字や漢字の表意性が現在では薄れているもの、あるいは選挙の候補者名などは、漢字を〝開く〟=ひらがな表記にする、ことがよくあります。

①難読漢字
新聞業界では、内閣告示や業界内のルールで、漢字を使わずかな表記にするものが定められています。

例:御輿→みこし / 轟音→ごう音

②漢字の表意性が薄れたもの
これはどこかでこう使う、というルールがあるわけではなく、一定の業界などで慣用的に使われるケースが多いようです。

例:子供→子ども

「供」には、「お供する(親に付き従う)」という意味と、複数を表す意味があり、どちらも現代の「こども」にはその意味がないため表意性が薄れているが、一方で単語・音としての「こども」は定着しており、また代替できる言葉もないため、漢字を開いて使っている、というところだと思います。

選挙の候補者名(ポスターなど)については、「さかもと龍馬」とか、「いとう博文」とか、坂本か阪本か坂元か、伊藤か伊東か、書き間違えたら困る心理(開票作業で無効票にされたら困る)が働くので、ひらがなで書くようになっていったのでしょう。「有権者をバカにしとんのか!」という声も聞きますが、候補者としては無難なほうを取る気持ちはわかります。

で、問題は「障がい者」です。
確かめてはいませんが、鳩山内閣以降、政府としても「害」をひらがなにして使っているようです。
なぜひらがなにしてるのか、The J.B.'fメンバーで全盲で社会福祉士の片岡亮太に聞いて見ると、「害」という漢字のイメージが悪いから、ということだそうです。

僕は直感的に、言いようのない嫌悪感を感じました。
どこまでが健常でどこからが障害か、その線引きはできるのか、という議論はさておいたとしても、社会的に「障害者」と呼ばれている人たちが、人間として生きていくうえでの身体的あるいは精神的な困難さ=障害を抱えているのは、厳然とした事実なのです。

人間の尊厳の問題として、どんなに重い障害があろうが、あるいはなかろうが、人はみな生まれながらに平等だ、というのは言うまでもありません。。たとえ現実社会では平等でなくても、これは幻想でも理想でもなく、それが人類の認識の到達点だと思います。

しかしそれと、「人間としてみな同じだから、その差異をとっぱらおう。イメージの悪い〝害〟という字をひらがなにしよう」というのは、まったく意味が違います。

繰り返しになりますが、「障害」そのものは厳然としてあるのです。

僕が危惧したのは、漢字を覆い隠すことで、結局は社会的なケアが必要とされる「障害」を、社会の努力でに乗り越えていくことから、イメージとして遠ざけるのではないか、ということです。
気にしすぎかも知れませんが、少なくとも純粋に言葉の使い方からすれば、まったくの反対物になってしまうことは間違いありません。

これが、「障害者は自力で生きていけ」という「自立支援法」(特捜のねつ造問題で一躍ヒロインになった村木さんが立役者。一連の騒動は、検察の失態を逆手にとって誰かが絵を描いていたのは間違いないでしょう)の思想・発想と結びつくと、社会的にも政治的にも、やがては思想的にも、障害者が排除されていくことにつながる心配は、杞憂ではないと思います。

言霊が言葉の「心」だとすれば、字は言葉の「体」です。体が蝕まれれば、やがて心も蝕まれていくのでしょう。

「障がい者」と同様、「チャレンジド」という言葉も、同じものを感じます。っていうか、The J.B.'fのなかでは唯一「健常者」とされている僕は、「俺だってチャレンジドや!」と叫びたくなります。
言うまでもありませんが、言葉狩りをするつもりはなく、これらの言葉を使っている人を批判する意図はありません。
ただ、字や言葉と、そこに宿る意味については、もっと大事に考えられるようになれば、と願っています。

2011/01/25

ことばについて① 言霊と音霊

近年、若い人たちの「過剰敬語」や「あいまい表現」が指摘されることが多い。
僕自身はしゃべりが得意なほうではなく、敬語だってちゃんと使えているか自信はないが、物書きの端くれを(短い期間だけど)やっていたこともあり、こうした日本語表現はどうにも気になる性質だ。

「請求書のほうお送りしますので、ご記入のほうよろしくお願いいたします」

「おタバコのほうお吸いになられますか? (いいえ)ではお席のほうへご案内いたします」

「昨日の飲み代の精算とかってどうすればいいですか?」



こんな表現は毎日聞く。

口やかましい「日本語おじさん」にはなりたくないので(笑)、使うことにあまりケチをつける気持ちはないけど、自分が使うことを考えると、とても違和感がある。

「請求書のほう」「おタバコのほう」…では「そうでないほう」とは? 「飲み代とか」…あとは何があるの?
僕は、この「~のほう」等の言葉に気持ちを込めて話すことができない。そこに言葉の意味を感じられないから使えないのだ。
だからこうした言葉を使う人は、果たしてどこまで自分の言葉に意味と気持ちを込めて話しているのか、何となくではあるが訝しく感じてしまう。

過剰敬語には「敬語が足りなくて失礼をしたくない」、あいまい表現には「物事を断定したくない」という、現代の若者の気質があるという指摘は広く行われているし、それは当を得ていて、その気質を全否定すべきこともないと思うが、それよりも、言葉そのものが自分の表現として、あるいはコミュニケーションの手段として大事に扱われなくなってきていることのほうが、僕は重要な問題だと思う。文法的に正しいかどうかなんて、少なくとも口語の世界ではそんなに厳密じゃなくてもいいのではないか。

あいまい表現があまりに気になるとき、僕は「自分の言葉をちゃんと自分で聞いてるか?」と問いかける。
口から出た言葉を、もう一度耳で聞く。言葉は「言の葉」と呼ばれたり「言霊」と呼ばれたりするように、口から発された瞬間から、それ自身の魂を持つのだ。だから口がすべったり、多くの人の心をとらえたりするのだ。

自分の発した言葉にどんな言霊が宿るのか、それは「聞く」ことでしか分からない。そこに自分の気持ちさえ込めていれば、耳で聞いたときに「あ、この言葉じゃない」と己と言霊の相違を発見し、言い直したりもできる。逆に、言霊になって初めて、自分の気持ちが理解できたり、考えが整理されたりすることも多々ある。

音楽も同じだと思う。
僕は太鼓しか演奏できないが、両腕から紡ぎ出されたリズムは、自分自身であると同時に、それ自体に魂が宿り、僕以上の力を持つ。いわば「音霊」だ。一方で、とくにテレビでは、気持ちのこもらない、粗末に扱われたかわいそうな音たちがあふれている。

とはいいながら、僕も自分の演奏に対して「こうじゃなーい!」と自己嫌悪することのほうが日常では圧倒的。

でもただ一つ言えることは、休符も含め、あるいは「音の出る前」と「音が消えた後」も含め、たとえ1曲の中で何千発打とうが、一つの音だって絶対に粗末には扱わない。できそこないの音も含めて。

それだけは自信がある。

2010/12/01

やつらの足音に耳を澄ませ!~blues.the-butcher-590213 presents "ROOTS"

それほど飲んでもいなかったのに、不覚にも涙してしまいました。

日本屈指のオーセンティック・ブルースバンド「blues.the-butcher-590213」の主催する「ROOTS」というライブイベントに行ってきました。その名の通り音楽的ルーツをテーマにそれぞれのミュージシャンがライブを行う、というものです。

端はムッシュかまやつ。エレキ1本のソロで「やつらの足音のバラード」を歌い始めました。アニメ「はじめ人間ギャートルズ」のエンディング曲です。最初はただ「懐かしいなあ」と思って聴いていたのですが、そのうち歌詞が心に染みわたってきました。

♪何にもない 何にもない まったく何にもない
生まれた 生まれた 何が生まれた
星がひとつ 暗い宇宙に 生まれた

そう、ムッシュは地球の誕生にまで「ROOTS」をさかのぼっていったのです。
聴きながら、僕らの音楽が、たどりたどれば人間の歴史そして宇宙の歴史にルーツを持つんだ、という思いが、あの優しく懐かしいメロディーとともに広がっていきました。

家に帰ってから、改めてじっくり聴きました。
地球の誕生から、マンモスを追ってやってくる「やつら」(おそらく、大陸から地続きだった時代に獲物を追ってやってきた原初の日本人のルーツをイメージしているのだと思います)まで、しみじみと絵が浮かびます。
作詞は漫画原作者の園山俊二氏ですが、自然と人間の歴史に対するふかーい敬愛があったのだと、初めて気づかされました。印象的な歌詞と柔らかいメロディーで子どもの頃から好きだった曲ですが、大好きになりました。


さて、そんな感じで1曲目からいきなり心臓をアイアンクローされたライブは、休憩込みの5時間弱!という超長丁場にも関わらず、最後までアドレナリン全開で楽しめました。

blue.the-butcher-590213は、「ブッチャー」というニックネームを持ち、最も多くのギタリストに愛されながら3年前に若くして世を去ったギタリスト、浅野祥之氏の死をきっかけに結成されたブルースバンドです。
僕は、沼澤尚がドラムを担当するJ&Bというバンドで彼を知りました。J&Bのライブはいつもチケット争奪戦で、まだかまだかと次のライブを待っていたときに、浅野氏が肺炎の悪化で亡くなったという訃報を聞いて、ただただあの音楽が聴けなくなる寂しさを募らせたものでした。


この日のライブアクトは、他にLeyona、Ill(DJで参加)、田中和将(Grapevine)、奥田民生の4人。
トリを「blues.the-butcher with 奥田民生」で務めた後、全員のSpecial Sessionで幕を閉じました。

ちなみに舞台は横浜。日本の「西洋化」(という言い方は少々乱暴ですが)の玄関口となった地です。この異国情緒も、海の向こうのルーツを感じさせるものでした。
ついでに中華街で大陸系?ルーツの味も堪能しました(^_^)v
(2010.11.28 横浜Bay Hall)





2010/11/30

立ち返る場所〜日本音楽集団定期演奏会〜

日本音楽集団の定期演奏会を見に行きました。
「和楽器オーケストラ」「現代邦楽」などと呼ばれるジャンルですが、例えば現代の作曲家が交響曲を書いても「現代音楽」とは呼ばれません。日本の楽器と西洋の楽器では、その「生育歴」が違うので、呼び方も変わってくるのでしょうが、やってることはいわゆる「現代音楽」というよりは、伝統楽器を使った中~大編成の「合奏」であって、「現代音楽」のアバンギャルドさとは一線を画した親しみやすいものだと思っています。ぜひ、多くの方に聞いていただきたい音楽です。

打楽器(太鼓ではなく「鳴り物」)だけを集めた池辺晋一郎氏の曲、現代詩の朗読に音楽をあてたもの、音楽集団発足間もない頃の挑戦と試行錯誤の曲など、バラエティに富んだコンサートでしたが、終演後の打ち上げで話したことが印象に残りました。

今回はクラシック系の指揮者が客演されたのですが、その振り方はやはりクラシックばりにシビアでタイトだったそうです。
同じオーケストラでも、西洋では「クラシック」=古典ですが、邦楽オーケストラは古典ではありません。
そういうものと対峙し取っ組み合うなかで、「古典という〝たち帰る場所〟があるから、僕らはやっていられる」と僕の師匠が仰っていました。

古典というのは、音楽なら音楽、楽器なら楽器の発祥と一体のものです。その音楽が、その楽器がなぜ生まれたのか、そこにある時代との対峙にこそ、古典の神髄があり、古典の古典たる所以があります。「古音楽」「古文書」ではなく「典」、つまり手本でありよりどころ、我々にとってのたたかいの手引き、ということだと思います。これは学問・文化に共通するもので、音楽に限った話ではありません。

太鼓打ちにとっては、能や歌舞伎の音楽、各地の民俗芸能が「古典」だし、古典というのは出てきた「結論」だけを学んでも何の意味もないもので、その「過程」に流れる〝人間の血〟を学ばなければならないのだと思います。

(2010.11.17 第一生命ホール)

2010/11/18

ツェッペリン・スイッチ ON!

昨日、「ツェッペリン・スイッチ」が入った。

「ツェッペリン・スイッチ」というのは、僕の脳の中のどこかにあって、一度ONになるとレッド・ツェッペリンしか聴かなくなり、なかなかOFFにならないスイッチのことだ。

ツェッペリンの音楽には、そんな「毒性」がある。
例えばビートルズなんかは、大好きだしよく聴くけど、いつでも聴けて、いつでも他の音楽に気移りできる気楽さがある。だけどなぜだかツェッペリンは、普段なかなか聴かないのに、一度聴きはじめるとともう離してくれない力がある。

なぜなのか? それは深く考えないことにしている(笑)。

今回スイッチが入ってしまったのは、「ドラムマガジン」12月号で、〝ボンゾ〟ことジョン・ボーナムの大特集をやっていたからだ。
ボンゾのドラミングからは、多くのことを学んだ。ドラマーじゃないので難しいことはわからないが、サウンドメイク、ダイナミクス、タメとツッコミ、それらを土台にした独特のグルーヴ、そして何より曲と歌のコンセプトに沿った、あるいはコンセプト自体を先導するドラムの役割・・・。不世出・最高峰のドラマーであったことは間違いない。
ドラムマガジンの特集では、ボンゾのドラミングの「音鳴り」にひとつの照準をあてた記事を書いている。和太鼓にも通じることなので、興味のある人はぜひ読んでみてほしい。

ボンゾのドラミングが好きなのは、もちろんレッド・ツェッペリンの音楽自体が大好きだった、ということが最大の要因だけど、「その音楽がなぜ好きなのか」を探求してみると、そこに音楽的特質を見つけることができる、というのも、ツェッペリンを聴いていて発見したことだ。

以前、The J.B.'fで「ゴールドコンサート」に出演したときに、スタッフの学生に「LED ZEPPELIN」のロゴ入りバッグを見つけられ、

「好きなんですか?」

と聞かれたことがあった。

「なんか〝ツェッペリン・スイッチ〟が頭の中にあるんだよねー」

と言ったら、

「僕もあります!」

と即答された。

「スイッチ」という言葉だけで説明もいらなかったのが嬉しかった。

去年、ニューヨークに行ったときも、このバッグをみて、カルネ申請の窓口にいた空港のおっちゃんが声をかけてくれた。

「Drummer?」

最初はなぜそう聴かれたのかわからなかったが、そのおっちゃんは僕のバッグを指さした。

「Yes ! I'm Japanese Drummer !」

この出来事があったおかげで、はじめての自力海外でも少しホッとしたのを覚えている。



僕の頭の中にスイッチがある、と自覚しているのは、Zepの他にはジミヘンだけだ。

それがなぜだかわからないが、ただ、こう書いてみて気がついたのは、ツェッペリンもジミヘンも、「今を生きるスリリングさ」を音にしている、という点で共通している、ということだ。それはライヴだろうがスタジオレコーディングだろうが、変わらず貫かれている。
一人の人間としてみれば、彼らの音楽はやはり彼ら自身にとってのカタルシスだったのかも知れない。それが僕の心をとらえるのだろうか・・・。


ボンゾの死に様もジミヘンの死に様も、僕は少しも肯定するつもりはない。ある意味では、時代に負けたのだ。だけどその終わり方に、やってきたことの運命的な帰結を見てしまうのもまた、事実だ。多分、多くのツェッペリンファン、ジミヘンファンは同じように感じていることだろう。

さて、毎年恒例の年末ライブラッシュを控え、予習をしなきゃなんないのに、「スイッチ」は入ってしまった。

いつ、スイッチはOFFになってくれるだろう・・・。


2010/11/01

続・音楽恐慌?

ローソンが目を付けたのは、音楽的なこだわりが強いと言われるHMVの会員400万人だそうです。比較的購買意欲の高い層をターゲットに、エンタメ関係の需要を掘り起こそう、ということでしょう。

もとより買収そのものを否定するつもりはないし(そもそも株主じゃないし)、がんばっては欲しいと思います。

さて、ヒッキーは引退説まで出てきているようですが、ぜひ再起してほしいものですね。
以前、Mr.Childrenの活動休止を予見し、それが的中したことがありました。アルバム『ボレロ』が出たときに、〝こんな歌、歌い続けられるはずがない〟と思ったからですが、まああのアルバムを聴けば誰でもそう思うかも知れません。

桜井和寿の場合、社会の不条理を歌いながら、批判してきた資本主義のシステムのおかげで自分は成功を収め栄光を手にするという矛盾に突き当たったこと、とくに彼は世の矛盾を自己の内側に見出だし、身を削って歌っていたので、言ってみれば先鋭的な表現者としての感受性がブレイクダウンしてしまった、ということだったと思います。

しかしヒッキーの場合は、プライベートな事情もあるにせよ、芸術家として必要な「人間性の再生産」、僕はよく「心の新陳代謝」と言いますが、それが出来なくなったことによるものです。さまざまな事情から「心の栄養」を取ることが出来なくなり、このままでは「残りカス」のような曲しか書けなくなる、と思ったのでしょう。

職業音楽家としてはそれでも休まず続けるべきなのかも知れませんが、もはや限界に達した業界の在り方に、〝賞味期限の内に搾り取られるだけの使い捨てになってたまるか〟と、バッシンクを恐れず一石を投じた彼女の姿勢を、僕は支持します。

いずれにしても、「人間的なものの再生産」が、つくる側でも聴く側でも行われず、それを前提に業界が利益を上げる仕組み作りに躍起になっている現状は負のスパイラルです。ヒッキーの決断がこの螺旋を断ち切ることにつながることを願って止みません。

僕らにとっては、音楽をファッションやスタイルとして「消費する」聴き方だけでなく、一つひとつの作品をアーティストの分身として大切にすることに、もっともっと頓着する必要があるのでは、と感じます。

2010/10/30

全国CDショップ店員組合

先日の記事を書くために、インターネットでいろいろ調べていたら、「全国CDショップ店員組合」なるものがあることを知りました。

CDが売れない時代に、音楽カルチャーの発信源としてのショップ・ショップ店員の存在を輝かせるためにがんばろう、ということのようです。全国のショップ紹介連載(まだ第1回ですが)などもあり、面白いサイトです。

ぜひ立ち寄ってみてください。

http://www.cdshop-kumiai.jp/

です。

2010/10/29

音楽恐慌?

昨日、HMVジャパンがローソンに買収される、というニュースがありました。

HMV渋谷の目と鼻の先にあったタワレコは、すでにセブンアンドアイHDが筆頭のドコモに次ぐ大株主になっています。もちろん、コンビニとCDショップが一体化する、というわけではないでしょうが、何やら音楽業界の運命、というか命運を象徴しているような気がしてなりません。

コンビニ経営の鉄則は「売れるものだけ置く」ということです。「この銘柄はあまり売れないけど好きな人がいるから置いとこうか」みたいなことはないですよね。
逆に、「売れるものを置く」のではなく「売りたいものを置く」・・・そんな音楽カルチャーの発信源の一つになっていったCDショップの象徴がHMV渋谷店でした。僕はあまり聴きませんが、いわゆる「渋谷系」なんてのがそうです。

曽我部恵一というミュージシャンが、「今はもうそんなことが許される時代ではなくなった」と話していました。消費不況の時代、資本の集中を余儀なくされたレコード会社も販売店も、株価を上げることがほぼ唯一の評価基準になり、確実に利益をあげることが最優先にされ、つまり「確実に売れるものを置く」ことを強制され、店としての個性が置き去りにされた、というわけです。まさにコンビニです。

先日、メーカーにとってはドル箱もドル箱の宇多田ヒカルが「人間活動に専念するため」と無期限休養宣言をしました。
15歳で文字通り鮮烈なデビューを果たし、数々の売り上げ記録を塗り替えたトップアーティストが「人間活動」のために音楽生産を封印する…音楽は人間的なものじゃなかったの? という疑問を多くの人が感じた出来事でした。

これはいわば生産の破壊。
流通に生産が呑み込まれ、やがては生産そのものが破壊されていく…これは一種の恐慌ではないでしょうか?

結局、音楽生産の崩壊の裏には、「芸術と人間性の乖離」がある、ということなのでしょうか?
(つづく)

2010/10/26

出会い系?



少し前になりますが、HMVの旗艦店であった渋谷店が閉店しました。

以前渋谷につとめていたことがあり、「HMV派」(近くにタワレコもある)を自負していた僕は、新品CDはHMVで買う、と決めていたのでよく足を運びました。

この店でかかっている曲を聴いて、お気に入りになったアーティストはたくさんいます。
いま思い出すだけでも、Boom Boom Satellites,Asian Dub Foundation, SUM41,Fireballなどなど・・・。
僕にとっては大事な出会いの場でした。

なくなってみて思うのは、音楽・芸術は「出会い」だなあ、ということ。作品が人格の投影であれば、当然かも知れません。
偶然の積み重ねでたまたま聴いた曲、知り合ったアーティスト・・・運命の歯車が一つ違えば、一生出会うことはなかったかも知れないし、つまりは今とは違う自分になっていたのでしょう。

「音楽不況」と言われて久しいですが、インターネットも含めて音楽が売れなくなっているようで、店舗型販売の黄昏は店舗だけの問題ではないようです。

大量消費型の音楽生産が作品から創造性を奪って質を貶め、めぐりめぐって売れなくなってきているのだとしたら、何とも悲しい限りです。