2011/05/06

無欲の欲


連休中、2つの高校部活動のコンサートを見に行きました。
鶴見総合高校和太鼓部と都立東大和高校吹奏楽部で、いずれも3月中の公演予定が震災の影響でGWに延期されていたものです。

どちらも太鼓でつながりのあるメンバーがいる関係で足を運んだのですが、共通して感じたことがありました。

それは、男子部員が2人しかいないこと・・・は(重大ですが)おいといて(笑)、「無欲に」音楽を楽しんでいたことです。

自己表現・自分を見せる、ということはもちろん大切で、それを否定する意味ではありませんが、ブラスバンドのように作曲家が書いた曲をアンサンブルで演奏するとき、昔からの祭囃子や古典音楽を演奏するとき、「己を見せたい」という欲が先に立つと、見えるものも見えなくなるのです。

というよりも、僕自身も、秩父屋台囃子などの伝統的なお囃子、あるいは能や歌舞伎の古典音楽などに触れるようになって、だんだん己を捨てることができ、そこで初めて、一端かも知れませんが真髄に触れるというか、長ーく受け継がれてきたもの“そのもの”に触れられた気がするのです。

当世、高校生が純真無垢だというのは幻想かも知れませんが、少なくとも今回見た高校生たち、彼らの若さ、まじめさ、ひたむきさが、欲に邪魔をさせず曲そのものを楽しみ、そのことで曲そのものが持つ価値を知ることを可能にしたのではないか、と思います。指導者の見識と力量に因るところも大きかったのでしょう。

もう一つ、彼らが無欲になれたのは、やはり震災の影響があったのだと思います。
仲間がいて、楽器と場所と時間があって・・・という、今まで当たり前だと思っていたことにかけがえのない価値があったことを、一緒に過ごしてきたからこそ敏感に受け止め、やがて卒業して離ればなれになるいまの仲間との時間・演奏をもっともっと大切にしよう、そう感じたのではないでしょうか。

それは、見ている側にも伝わる、というより見ている側も同じ立場でした。
演奏というのは文字通り一期一会で、音は出た瞬間から減衰し、心に印象を残して消えていくもので、その瞬間の感動こそが最大の価値だと思います。取り戻すべき日常、大切にすべき時間が何かを、音楽を通じて演奏者も観客も共有することができたのではないかと思います。

「欲」も必要ですが、「無欲」は意識しないと得られない(無を得るというのも変な表現ですが)もの。精進したいと思います。

(5月3日 鶴見総合高校和太鼓部演奏会)

(5月4日 都立東大和高校吹奏楽部演奏会)

※写真は仙堂師匠および響の玉田さんからお借りしました。

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