2011/01/27
無音のダイナミズム 〜日本音楽集団〜
日本音楽集団の第202回定期演奏会に行ってきました。
この日の主題は「創造の発展的継承」。その意味するところは僕にはわかりませんでしたが、第一部は「静」、第二部は「動」という感じだったので、前半は心地よく睡魔が襲ってきました(^_^;)
が、第一部最後の「金雀」は、この日の曲の中ではもっとも音数が少ない曲にもかかわらず、すっかり眠気も吹っ飛び、固唾を飲んで聞き入ってしまいました。
この「金雀」は「無音」をテーマにした曲で、舞台後方で客席側を向いた指揮者を真ん中にして6人の奏者が並び、身振り手振りも使って有音・無音を表現する、というものでした。
一瞬の緊張から徐々に弛緩していく、その流れを繰り返すなかで、客席にもその張りつめた空気が伝わってきます。指揮者を客席向きに配置したのも、それをねらってのことなのでしょうか。
短い曲でしたが、曲が終わったときにこぼれた奏者の自然な笑みが印象的でした。
八丈太鼓をたたくときなんかも、何拍分かの「間」には、万感の思いを込めます。
何もないところにすべてがある。例えるならブラックホールでしょうか?
音楽集団の演奏を見ていて、はじめてやってみたいと思った曲でした。
(やれるレベルではないですが)
さて、実はこの日の公演、京都時代から旧知の山内利一くんというタイコウチ・パーカッショニストが集団に入団してのデビュー戦でした。
僕がもっともリスペクトするタイコウチの一人ですが、いまの音楽集団は若返りを計っているらしく、これからもどんどん若い人が活躍しそうです。
次は7月14日、三木稔さんの名曲「マリンバ・スピリチュアル」や江戸囃子を元にした曲をやるようです。
楽しみです。興味のある方はぜひどうぞ。
ことばについて② 障「がい」者って?
前回の「音」から今回は「文字」の話。
難読漢字や漢字の表意性が現在では薄れているもの、あるいは選挙の候補者名などは、漢字を〝開く〟=ひらがな表記にする、ことがよくあります。
①難読漢字
新聞業界では、内閣告示や業界内のルールで、漢字を使わずかな表記にするものが定められています。
例:御輿→みこし / 轟音→ごう音
②漢字の表意性が薄れたもの
これはどこかでこう使う、というルールがあるわけではなく、一定の業界などで慣用的に使われるケースが多いようです。
例:子供→子ども
「供」には、「お供する(親に付き従う)」という意味と、複数を表す意味があり、どちらも現代の「こども」にはその意味がないため表意性が薄れているが、一方で単語・音としての「こども」は定着しており、また代替できる言葉もないため、漢字を開いて使っている、というところだと思います。
選挙の候補者名(ポスターなど)については、「さかもと龍馬」とか、「いとう博文」とか、坂本か阪本か坂元か、伊藤か伊東か、書き間違えたら困る心理(開票作業で無効票にされたら困る)が働くので、ひらがなで書くようになっていったのでしょう。「有権者をバカにしとんのか!」という声も聞きますが、候補者としては無難なほうを取る気持ちはわかります。
で、問題は「障がい者」です。
確かめてはいませんが、鳩山内閣以降、政府としても「害」をひらがなにして使っているようです。
なぜひらがなにしてるのか、The J.B.'fメンバーで全盲で社会福祉士の片岡亮太に聞いて見ると、「害」という漢字のイメージが悪いから、ということだそうです。
僕は直感的に、言いようのない嫌悪感を感じました。
どこまでが健常でどこからが障害か、その線引きはできるのか、という議論はさておいたとしても、社会的に「障害者」と呼ばれている人たちが、人間として生きていくうえでの身体的あるいは精神的な困難さ=障害を抱えているのは、厳然とした事実なのです。
人間の尊厳の問題として、どんなに重い障害があろうが、あるいはなかろうが、人はみな生まれながらに平等だ、というのは言うまでもありません。。たとえ現実社会では平等でなくても、これは幻想でも理想でもなく、それが人類の認識の到達点だと思います。
しかしそれと、「人間としてみな同じだから、その差異をとっぱらおう。イメージの悪い〝害〟という字をひらがなにしよう」というのは、まったく意味が違います。
繰り返しになりますが、「障害」そのものは厳然としてあるのです。
僕が危惧したのは、漢字を覆い隠すことで、結局は社会的なケアが必要とされる「障害」を、社会の努力でに乗り越えていくことから、イメージとして遠ざけるのではないか、ということです。
気にしすぎかも知れませんが、少なくとも純粋に言葉の使い方からすれば、まったくの反対物になってしまうことは間違いありません。
これが、「障害者は自力で生きていけ」という「自立支援法」(特捜のねつ造問題で一躍ヒロインになった村木さんが立役者。一連の騒動は、検察の失態を逆手にとって誰かが絵を描いていたのは間違いないでしょう)の思想・発想と結びつくと、社会的にも政治的にも、やがては思想的にも、障害者が排除されていくことにつながる心配は、杞憂ではないと思います。
言霊が言葉の「心」だとすれば、字は言葉の「体」です。体が蝕まれれば、やがて心も蝕まれていくのでしょう。
「障がい者」と同様、「チャレンジド」という言葉も、同じものを感じます。っていうか、The J.B.'fのなかでは唯一「健常者」とされている僕は、「俺だってチャレンジドや!」と叫びたくなります。
言うまでもありませんが、言葉狩りをするつもりはなく、これらの言葉を使っている人を批判する意図はありません。
ただ、字や言葉と、そこに宿る意味については、もっと大事に考えられるようになれば、と願っています。
難読漢字や漢字の表意性が現在では薄れているもの、あるいは選挙の候補者名などは、漢字を〝開く〟=ひらがな表記にする、ことがよくあります。
①難読漢字
新聞業界では、内閣告示や業界内のルールで、漢字を使わずかな表記にするものが定められています。
例:御輿→みこし / 轟音→ごう音
②漢字の表意性が薄れたもの
これはどこかでこう使う、というルールがあるわけではなく、一定の業界などで慣用的に使われるケースが多いようです。
例:子供→子ども
「供」には、「お供する(親に付き従う)」という意味と、複数を表す意味があり、どちらも現代の「こども」にはその意味がないため表意性が薄れているが、一方で単語・音としての「こども」は定着しており、また代替できる言葉もないため、漢字を開いて使っている、というところだと思います。
選挙の候補者名(ポスターなど)については、「さかもと龍馬」とか、「いとう博文」とか、坂本か阪本か坂元か、伊藤か伊東か、書き間違えたら困る心理(開票作業で無効票にされたら困る)が働くので、ひらがなで書くようになっていったのでしょう。「有権者をバカにしとんのか!」という声も聞きますが、候補者としては無難なほうを取る気持ちはわかります。
で、問題は「障がい者」です。
確かめてはいませんが、鳩山内閣以降、政府としても「害」をひらがなにして使っているようです。
なぜひらがなにしてるのか、The J.B.'fメンバーで全盲で社会福祉士の片岡亮太に聞いて見ると、「害」という漢字のイメージが悪いから、ということだそうです。
僕は直感的に、言いようのない嫌悪感を感じました。
どこまでが健常でどこからが障害か、その線引きはできるのか、という議論はさておいたとしても、社会的に「障害者」と呼ばれている人たちが、人間として生きていくうえでの身体的あるいは精神的な困難さ=障害を抱えているのは、厳然とした事実なのです。
人間の尊厳の問題として、どんなに重い障害があろうが、あるいはなかろうが、人はみな生まれながらに平等だ、というのは言うまでもありません。。たとえ現実社会では平等でなくても、これは幻想でも理想でもなく、それが人類の認識の到達点だと思います。
しかしそれと、「人間としてみな同じだから、その差異をとっぱらおう。イメージの悪い〝害〟という字をひらがなにしよう」というのは、まったく意味が違います。
繰り返しになりますが、「障害」そのものは厳然としてあるのです。
僕が危惧したのは、漢字を覆い隠すことで、結局は社会的なケアが必要とされる「障害」を、社会の努力でに乗り越えていくことから、イメージとして遠ざけるのではないか、ということです。
気にしすぎかも知れませんが、少なくとも純粋に言葉の使い方からすれば、まったくの反対物になってしまうことは間違いありません。
これが、「障害者は自力で生きていけ」という「自立支援法」(特捜のねつ造問題で一躍ヒロインになった村木さんが立役者。一連の騒動は、検察の失態を逆手にとって誰かが絵を描いていたのは間違いないでしょう)の思想・発想と結びつくと、社会的にも政治的にも、やがては思想的にも、障害者が排除されていくことにつながる心配は、杞憂ではないと思います。
言霊が言葉の「心」だとすれば、字は言葉の「体」です。体が蝕まれれば、やがて心も蝕まれていくのでしょう。
「障がい者」と同様、「チャレンジド」という言葉も、同じものを感じます。っていうか、The J.B.'fのなかでは唯一「健常者」とされている僕は、「俺だってチャレンジドや!」と叫びたくなります。
言うまでもありませんが、言葉狩りをするつもりはなく、これらの言葉を使っている人を批判する意図はありません。
ただ、字や言葉と、そこに宿る意味については、もっと大事に考えられるようになれば、と願っています。
2011/01/25
ことばについて① 言霊と音霊
近年、若い人たちの「過剰敬語」や「あいまい表現」が指摘されることが多い。
僕自身はしゃべりが得意なほうではなく、敬語だってちゃんと使えているか自信はないが、物書きの端くれを(短い期間だけど)やっていたこともあり、こうした日本語表現はどうにも気になる性質だ。
「請求書のほうお送りしますので、ご記入のほうよろしくお願いいたします」
「おタバコのほうお吸いになられますか? (いいえ)ではお席のほうへご案内いたします」
「昨日の飲み代の精算とかってどうすればいいですか?」
こんな表現は毎日聞く。
口やかましい「日本語おじさん」にはなりたくないので(笑)、使うことにあまりケチをつける気持ちはないけど、自分が使うことを考えると、とても違和感がある。
「請求書のほう」「おタバコのほう」…では「そうでないほう」とは? 「飲み代とか」…あとは何があるの?
僕は、この「~のほう」等の言葉に気持ちを込めて話すことができない。そこに言葉の意味を感じられないから使えないのだ。
だからこうした言葉を使う人は、果たしてどこまで自分の言葉に意味と気持ちを込めて話しているのか、何となくではあるが訝しく感じてしまう。
過剰敬語には「敬語が足りなくて失礼をしたくない」、あいまい表現には「物事を断定したくない」という、現代の若者の気質があるという指摘は広く行われているし、それは当を得ていて、その気質を全否定すべきこともないと思うが、それよりも、言葉そのものが自分の表現として、あるいはコミュニケーションの手段として大事に扱われなくなってきていることのほうが、僕は重要な問題だと思う。文法的に正しいかどうかなんて、少なくとも口語の世界ではそんなに厳密じゃなくてもいいのではないか。
あいまい表現があまりに気になるとき、僕は「自分の言葉をちゃんと自分で聞いてるか?」と問いかける。
口から出た言葉を、もう一度耳で聞く。言葉は「言の葉」と呼ばれたり「言霊」と呼ばれたりするように、口から発された瞬間から、それ自身の魂を持つのだ。だから口がすべったり、多くの人の心をとらえたりするのだ。
自分の発した言葉にどんな言霊が宿るのか、それは「聞く」ことでしか分からない。そこに自分の気持ちさえ込めていれば、耳で聞いたときに「あ、この言葉じゃない」と己と言霊の相違を発見し、言い直したりもできる。逆に、言霊になって初めて、自分の気持ちが理解できたり、考えが整理されたりすることも多々ある。
音楽も同じだと思う。
僕は太鼓しか演奏できないが、両腕から紡ぎ出されたリズムは、自分自身であると同時に、それ自体に魂が宿り、僕以上の力を持つ。いわば「音霊」だ。一方で、とくにテレビでは、気持ちのこもらない、粗末に扱われたかわいそうな音たちがあふれている。
とはいいながら、僕も自分の演奏に対して「こうじゃなーい!」と自己嫌悪することのほうが日常では圧倒的。
でもただ一つ言えることは、休符も含め、あるいは「音の出る前」と「音が消えた後」も含め、たとえ1曲の中で何千発打とうが、一つの音だって絶対に粗末には扱わない。できそこないの音も含めて。
それだけは自信がある。
僕自身はしゃべりが得意なほうではなく、敬語だってちゃんと使えているか自信はないが、物書きの端くれを(短い期間だけど)やっていたこともあり、こうした日本語表現はどうにも気になる性質だ。
「請求書のほうお送りしますので、ご記入のほうよろしくお願いいたします」
「おタバコのほうお吸いになられますか? (いいえ)ではお席のほうへご案内いたします」
「昨日の飲み代の精算とかってどうすればいいですか?」
こんな表現は毎日聞く。
口やかましい「日本語おじさん」にはなりたくないので(笑)、使うことにあまりケチをつける気持ちはないけど、自分が使うことを考えると、とても違和感がある。
「請求書のほう」「おタバコのほう」…では「そうでないほう」とは? 「飲み代とか」…あとは何があるの?
僕は、この「~のほう」等の言葉に気持ちを込めて話すことができない。そこに言葉の意味を感じられないから使えないのだ。
だからこうした言葉を使う人は、果たしてどこまで自分の言葉に意味と気持ちを込めて話しているのか、何となくではあるが訝しく感じてしまう。
過剰敬語には「敬語が足りなくて失礼をしたくない」、あいまい表現には「物事を断定したくない」という、現代の若者の気質があるという指摘は広く行われているし、それは当を得ていて、その気質を全否定すべきこともないと思うが、それよりも、言葉そのものが自分の表現として、あるいはコミュニケーションの手段として大事に扱われなくなってきていることのほうが、僕は重要な問題だと思う。文法的に正しいかどうかなんて、少なくとも口語の世界ではそんなに厳密じゃなくてもいいのではないか。
あいまい表現があまりに気になるとき、僕は「自分の言葉をちゃんと自分で聞いてるか?」と問いかける。
口から出た言葉を、もう一度耳で聞く。言葉は「言の葉」と呼ばれたり「言霊」と呼ばれたりするように、口から発された瞬間から、それ自身の魂を持つのだ。だから口がすべったり、多くの人の心をとらえたりするのだ。
自分の発した言葉にどんな言霊が宿るのか、それは「聞く」ことでしか分からない。そこに自分の気持ちさえ込めていれば、耳で聞いたときに「あ、この言葉じゃない」と己と言霊の相違を発見し、言い直したりもできる。逆に、言霊になって初めて、自分の気持ちが理解できたり、考えが整理されたりすることも多々ある。
音楽も同じだと思う。
僕は太鼓しか演奏できないが、両腕から紡ぎ出されたリズムは、自分自身であると同時に、それ自体に魂が宿り、僕以上の力を持つ。いわば「音霊」だ。一方で、とくにテレビでは、気持ちのこもらない、粗末に扱われたかわいそうな音たちがあふれている。
とはいいながら、僕も自分の演奏に対して「こうじゃなーい!」と自己嫌悪することのほうが日常では圧倒的。
でもただ一つ言えることは、休符も含め、あるいは「音の出る前」と「音が消えた後」も含め、たとえ1曲の中で何千発打とうが、一つの音だって絶対に粗末には扱わない。できそこないの音も含めて。
それだけは自信がある。
2011/01/10
新年ダッシュはアラゲホンジ!
新年初ライブはアラゲホンジ! 1週間のご無沙汰でした(笑)。
今回は響・JBのメンバーも連れて行ったので、人を憚らず踊る人間が増えました。
曼荼羅2は初めてでしたが、写真を見て「あんまり踊れなそうだなー」と思っていましたが、
演奏を聴いてしまえばそんなことはお構いなしに踊ってしまいました。
もろ好みのファンキーなロックチューンに民謡が乗ると、こんなにも楽しいものなのか、と再認識。
やはり日本人だからでしょうか、日本のメロディーには脳幹あたりが反応するような気分です。
亮太よ、やはりアメリカに帰化する前に(笑)見ておくべきだったぞ。
早く次が見たい!
(2011.1.4 MAMDA-LA2)
2011/01/02
2011/01/01
新年おめでとうございます
あけましておめでとうございます。
旧年中はたいへんお世話になりました。今年もよろしくお願いします。
2010年はいろんな方たちのつながりのなかで、たくさんの経験ができました。
ざっと振り返ると、
春には、一緒に活動してきた若い仲間がプロプレイヤーになる道を選択し、旅立ちました。
8月にはThe J.B.'f初のソロコンサートが実現、このユニットをつくった意義と課題をたくさん確認することができました。
お盆には初めて徳島へ。「これぞ日本一のお祭り!」と惚れ込んだ阿波踊りを見てきました。
また、The J.B.'fのプロ部隊、片岡亮太と友野龍士の二人がコバケンさんのオケで太鼓を演奏。これを機に僕もクラシックを学ぼうと、読めもしないスコアを買って勉強を始めました。
秋には、響で初めての県外単独公演。芸の力と故郷の価値に気づかされました。
稽古をサボりがちな古典も、ヤフオクで大皷をゲットでき、褌を締め直しているところです。
そして冬、2009年のニューヨーク公演を機にアメリカ留学を決意した片岡亮太が準備渡米。年明けには本格的な留学生活に入ります。
アメリカには学ぶものがたくさんありますが、この崩壊寸前の超大国を肌で学んで来るのもまた、いいタイミングと言えるかも知れません。
太鼓以外では、念願のBAQUEBAワークショップにやっと参加でき、さらにつながりが広がって、お祭りロックバンド「アラゲホンジ」とお近づきになれたり、阿波踊りの連を紹介してもらったり、韓国音楽ともつながりができそうだったりと、今年の飛躍を予感させる年末になりました。
ライブ観戦も何年かぶりに40本を超えましたが、去年ははっきりって当たり年でした。
スティーヴ・ジョーダン、スティーヴ・ガッドという、二人のスーパーレジェンド級ドラマーのステージを見られたり、八代亜紀のすごさに驚愕したり、年末を締めたアラゲホンジは予想の10倍よかったり、ずっと見てきたバンドは申し合わせたかのように新境地を切り開いていたり・・・。そういう年ってあるんですよね。
ということで今年は、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」をモットーに、去年得られた財産を積極的に活用して〝攻めの1年〟にします!宣言!
阪神も頑張れ!
旧年中はたいへんお世話になりました。今年もよろしくお願いします。
2010年はいろんな方たちのつながりのなかで、たくさんの経験ができました。
ざっと振り返ると、
春には、一緒に活動してきた若い仲間がプロプレイヤーになる道を選択し、旅立ちました。
8月にはThe J.B.'f初のソロコンサートが実現、このユニットをつくった意義と課題をたくさん確認することができました。
お盆には初めて徳島へ。「これぞ日本一のお祭り!」と惚れ込んだ阿波踊りを見てきました。
また、The J.B.'fのプロ部隊、片岡亮太と友野龍士の二人がコバケンさんのオケで太鼓を演奏。これを機に僕もクラシックを学ぼうと、読めもしないスコアを買って勉強を始めました。
秋には、響で初めての県外単独公演。芸の力と故郷の価値に気づかされました。
稽古をサボりがちな古典も、ヤフオクで大皷をゲットでき、褌を締め直しているところです。
そして冬、2009年のニューヨーク公演を機にアメリカ留学を決意した片岡亮太が準備渡米。年明けには本格的な留学生活に入ります。
アメリカには学ぶものがたくさんありますが、この崩壊寸前の超大国を肌で学んで来るのもまた、いいタイミングと言えるかも知れません。
太鼓以外では、念願のBAQUEBAワークショップにやっと参加でき、さらにつながりが広がって、お祭りロックバンド「アラゲホンジ」とお近づきになれたり、阿波踊りの連を紹介してもらったり、韓国音楽ともつながりができそうだったりと、今年の飛躍を予感させる年末になりました。
ライブ観戦も何年かぶりに40本を超えましたが、去年ははっきりって当たり年でした。
スティーヴ・ジョーダン、スティーヴ・ガッドという、二人のスーパーレジェンド級ドラマーのステージを見られたり、八代亜紀のすごさに驚愕したり、年末を締めたアラゲホンジは予想の10倍よかったり、ずっと見てきたバンドは申し合わせたかのように新境地を切り開いていたり・・・。そういう年ってあるんですよね。
ということで今年は、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」をモットーに、去年得られた財産を積極的に活用して〝攻めの1年〟にします!宣言!
阪神も頑張れ!
登録:
投稿 (Atom)