2011/01/27

ことばについて② 障「がい」者って?

前回の「音」から今回は「文字」の話。

難読漢字や漢字の表意性が現在では薄れているもの、あるいは選挙の候補者名などは、漢字を〝開く〟=ひらがな表記にする、ことがよくあります。

①難読漢字
新聞業界では、内閣告示や業界内のルールで、漢字を使わずかな表記にするものが定められています。

例:御輿→みこし / 轟音→ごう音

②漢字の表意性が薄れたもの
これはどこかでこう使う、というルールがあるわけではなく、一定の業界などで慣用的に使われるケースが多いようです。

例:子供→子ども

「供」には、「お供する(親に付き従う)」という意味と、複数を表す意味があり、どちらも現代の「こども」にはその意味がないため表意性が薄れているが、一方で単語・音としての「こども」は定着しており、また代替できる言葉もないため、漢字を開いて使っている、というところだと思います。

選挙の候補者名(ポスターなど)については、「さかもと龍馬」とか、「いとう博文」とか、坂本か阪本か坂元か、伊藤か伊東か、書き間違えたら困る心理(開票作業で無効票にされたら困る)が働くので、ひらがなで書くようになっていったのでしょう。「有権者をバカにしとんのか!」という声も聞きますが、候補者としては無難なほうを取る気持ちはわかります。

で、問題は「障がい者」です。
確かめてはいませんが、鳩山内閣以降、政府としても「害」をひらがなにして使っているようです。
なぜひらがなにしてるのか、The J.B.'fメンバーで全盲で社会福祉士の片岡亮太に聞いて見ると、「害」という漢字のイメージが悪いから、ということだそうです。

僕は直感的に、言いようのない嫌悪感を感じました。
どこまでが健常でどこからが障害か、その線引きはできるのか、という議論はさておいたとしても、社会的に「障害者」と呼ばれている人たちが、人間として生きていくうえでの身体的あるいは精神的な困難さ=障害を抱えているのは、厳然とした事実なのです。

人間の尊厳の問題として、どんなに重い障害があろうが、あるいはなかろうが、人はみな生まれながらに平等だ、というのは言うまでもありません。。たとえ現実社会では平等でなくても、これは幻想でも理想でもなく、それが人類の認識の到達点だと思います。

しかしそれと、「人間としてみな同じだから、その差異をとっぱらおう。イメージの悪い〝害〟という字をひらがなにしよう」というのは、まったく意味が違います。

繰り返しになりますが、「障害」そのものは厳然としてあるのです。

僕が危惧したのは、漢字を覆い隠すことで、結局は社会的なケアが必要とされる「障害」を、社会の努力でに乗り越えていくことから、イメージとして遠ざけるのではないか、ということです。
気にしすぎかも知れませんが、少なくとも純粋に言葉の使い方からすれば、まったくの反対物になってしまうことは間違いありません。

これが、「障害者は自力で生きていけ」という「自立支援法」(特捜のねつ造問題で一躍ヒロインになった村木さんが立役者。一連の騒動は、検察の失態を逆手にとって誰かが絵を描いていたのは間違いないでしょう)の思想・発想と結びつくと、社会的にも政治的にも、やがては思想的にも、障害者が排除されていくことにつながる心配は、杞憂ではないと思います。

言霊が言葉の「心」だとすれば、字は言葉の「体」です。体が蝕まれれば、やがて心も蝕まれていくのでしょう。

「障がい者」と同様、「チャレンジド」という言葉も、同じものを感じます。っていうか、The J.B.'fのなかでは唯一「健常者」とされている僕は、「俺だってチャレンジドや!」と叫びたくなります。
言うまでもありませんが、言葉狩りをするつもりはなく、これらの言葉を使っている人を批判する意図はありません。
ただ、字や言葉と、そこに宿る意味については、もっと大事に考えられるようになれば、と願っています。

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