僕自身はしゃべりが得意なほうではなく、敬語だってちゃんと使えているか自信はないが、物書きの端くれを(短い期間だけど)やっていたこともあり、こうした日本語表現はどうにも気になる性質だ。
「請求書のほうお送りしますので、ご記入のほうよろしくお願いいたします」
「おタバコのほうお吸いになられますか? (いいえ)ではお席のほうへご案内いたします」
「昨日の飲み代の精算とかってどうすればいいですか?」
こんな表現は毎日聞く。
口やかましい「日本語おじさん」にはなりたくないので(笑)、使うことにあまりケチをつける気持ちはないけど、自分が使うことを考えると、とても違和感がある。
「請求書のほう」「おタバコのほう」…では「そうでないほう」とは? 「飲み代とか」…あとは何があるの?
僕は、この「~のほう」等の言葉に気持ちを込めて話すことができない。そこに言葉の意味を感じられないから使えないのだ。
だからこうした言葉を使う人は、果たしてどこまで自分の言葉に意味と気持ちを込めて話しているのか、何となくではあるが訝しく感じてしまう。
過剰敬語には「敬語が足りなくて失礼をしたくない」、あいまい表現には「物事を断定したくない」という、現代の若者の気質があるという指摘は広く行われているし、それは当を得ていて、その気質を全否定すべきこともないと思うが、それよりも、言葉そのものが自分の表現として、あるいはコミュニケーションの手段として大事に扱われなくなってきていることのほうが、僕は重要な問題だと思う。文法的に正しいかどうかなんて、少なくとも口語の世界ではそんなに厳密じゃなくてもいいのではないか。
あいまい表現があまりに気になるとき、僕は「自分の言葉をちゃんと自分で聞いてるか?」と問いかける。
口から出た言葉を、もう一度耳で聞く。言葉は「言の葉」と呼ばれたり「言霊」と呼ばれたりするように、口から発された瞬間から、それ自身の魂を持つのだ。だから口がすべったり、多くの人の心をとらえたりするのだ。
自分の発した言葉にどんな言霊が宿るのか、それは「聞く」ことでしか分からない。そこに自分の気持ちさえ込めていれば、耳で聞いたときに「あ、この言葉じゃない」と己と言霊の相違を発見し、言い直したりもできる。逆に、言霊になって初めて、自分の気持ちが理解できたり、考えが整理されたりすることも多々ある。
音楽も同じだと思う。
僕は太鼓しか演奏できないが、両腕から紡ぎ出されたリズムは、自分自身であると同時に、それ自体に魂が宿り、僕以上の力を持つ。いわば「音霊」だ。一方で、とくにテレビでは、気持ちのこもらない、粗末に扱われたかわいそうな音たちがあふれている。
とはいいながら、僕も自分の演奏に対して「こうじゃなーい!」と自己嫌悪することのほうが日常では圧倒的。
でもただ一つ言えることは、休符も含め、あるいは「音の出る前」と「音が消えた後」も含め、たとえ1曲の中で何千発打とうが、一つの音だって絶対に粗末には扱わない。できそこないの音も含めて。
それだけは自信がある。
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