昨日、「ツェッペリン・スイッチ」が入った。
「ツェッペリン・スイッチ」というのは、僕の脳の中のどこかにあって、一度ONになるとレッド・ツェッペリンしか聴かなくなり、なかなかOFFにならないスイッチのことだ。
ツェッペリンの音楽には、そんな「毒性」がある。
例えばビートルズなんかは、大好きだしよく聴くけど、いつでも聴けて、いつでも他の音楽に気移りできる気楽さがある。だけどなぜだかツェッペリンは、普段なかなか聴かないのに、一度聴きはじめるとともう離してくれない力がある。
なぜなのか? それは深く考えないことにしている(笑)。
今回スイッチが入ってしまったのは、「ドラムマガジン」12月号で、〝ボンゾ〟ことジョン・ボーナムの大特集をやっていたからだ。
ボンゾのドラミングからは、多くのことを学んだ。ドラマーじゃないので難しいことはわからないが、サウンドメイク、ダイナミクス、タメとツッコミ、それらを土台にした独特のグルーヴ、そして何より曲と歌のコンセプトに沿った、あるいはコンセプト自体を先導するドラムの役割・・・。不世出・最高峰のドラマーであったことは間違いない。
ドラムマガジンの特集では、ボンゾのドラミングの「音鳴り」にひとつの照準をあてた記事を書いている。和太鼓にも通じることなので、興味のある人はぜひ読んでみてほしい。
ボンゾのドラミングが好きなのは、もちろんレッド・ツェッペリンの音楽自体が大好きだった、ということが最大の要因だけど、「その音楽がなぜ好きなのか」を探求してみると、そこに音楽的特質を見つけることができる、というのも、ツェッペリンを聴いていて発見したことだ。
以前、The J.B.'fで「ゴールドコンサート」に出演したときに、スタッフの学生に「LED ZEPPELIN」のロゴ入りバッグを見つけられ、
「好きなんですか?」
と聞かれたことがあった。
「なんか〝ツェッペリン・スイッチ〟が頭の中にあるんだよねー」
と言ったら、
「僕もあります!」
と即答された。
「スイッチ」という言葉だけで説明もいらなかったのが嬉しかった。
去年、ニューヨークに行ったときも、このバッグをみて、カルネ申請の窓口にいた空港のおっちゃんが声をかけてくれた。
「Drummer?」
最初はなぜそう聴かれたのかわからなかったが、そのおっちゃんは僕のバッグを指さした。
「Yes ! I'm Japanese Drummer !」
この出来事があったおかげで、はじめての自力海外でも少しホッとしたのを覚えている。
僕の頭の中にスイッチがある、と自覚しているのは、Zepの他にはジミヘンだけだ。
それがなぜだかわからないが、ただ、こう書いてみて気がついたのは、ツェッペリンもジミヘンも、「今を生きるスリリングさ」を音にしている、という点で共通している、ということだ。それはライヴだろうがスタジオレコーディングだろうが、変わらず貫かれている。
一人の人間としてみれば、彼らの音楽はやはり彼ら自身にとってのカタルシスだったのかも知れない。それが僕の心をとらえるのだろうか・・・。
ボンゾの死に様もジミヘンの死に様も、僕は少しも肯定するつもりはない。ある意味では、時代に負けたのだ。だけどその終わり方に、やってきたことの運命的な帰結を見てしまうのもまた、事実だ。多分、多くのツェッペリンファン、ジミヘンファンは同じように感じていることだろう。
さて、毎年恒例の年末ライブラッシュを控え、予習をしなきゃなんないのに、「スイッチ」は入ってしまった。
いつ、スイッチはOFFになってくれるだろう・・・。
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